近畿鴻峰会・寄稿
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寄稿
山口史跡―山口十境詩―
                                 76期 厚東 一生
建徳元年(1370年)明の使節趙秩らが倭寇の海賊行為の禁止と日本の明への朝貢貿易を求めて来日しました。時は恰も南北朝動乱期の時代、大内氏24世当主大内弘世の庇護のもと、山口に身を寄せた1年足らずの内に、趙秩が山口の風光明媚な十景を詠んだとされる、七言絶句の碑が街に溶け込み佇むように建っています。 山口十境詩の研究者、荒巻大拙氏は元山口高校教師で、小生、高校3年生時の担任でした。荒巻氏により10か所のそれぞれの石碑の解説が石碑の脇の銅板に記されています。 帰山の折に訪ねてみるのもまた一興かと思います。

      参考図書  かがやける大内文化の精華−山口十境詩考−
      荒巻大拙 著(荒巻氏は小生の高三時の担任でした。)



 

  氷上滌暑(大内氷上)

山口十境詩―氷上滌暑(大内氷上)興隆寺

乗福寺から、旧萩往還道を三田尻方面に10分程も歩くと「興隆寺」への案内板が建ち、案内板に従って5分程で石鳥居が建つ寺域に着きます。「興隆寺」です。寺伝に百済国琳聖太子の創建と伝えられる大内氏の氏寺で、歴代大内氏当主の帰依を受けてきた古刹です。境内は嘗ての寺勢は見る影もありませんが、梵鐘、北辰妙見大菩薩を祀る妙見堂、釈迦如来像を安置する如来堂が残っています。 梵鐘が吊るされている鐘楼の傍らに「十境詩」の石碑が建っています。

  氷上滌署(大内氷上)   氷上に暑を滌(さ)く
光凝山罅銀千畳   光は山罅(さんか)に凝(こ)れり、銀千畳
寒色C人絶鬱蒸   寒色は人を清(すず)やかにして鬱蒸(うつじょう)を絶つ
異國更無河朔飲   異国には更に無し河朔の飲
煩襟毎憶玉稜層   煩襟(はんきん)には毎(つね)に憶ふ、玉稜層

 

  南明秋興(大内御堀)

山口十境詩―南明秋興(大内御堀)乗福寺

  旧鰐石橋から旧萩往還を三田尻に向かって10分も歩くと大内盆地の山麓に向かって「乗福寺」への参道を示す案内板が建っています。参道を進むと、古色と言うよりも、朽ちかけたと言う方が適切な土塀に囲まれた「乗福寺」に着きます。「乗福寺」は大内氏の菩提寺のひとつで22代重弘が正和元年(1312年)に創建したと伝えられ、境内には大内氏の祖と伝えられる百済国の琳聖太子の供養塔、22代重弘、24代政弘の墓石が並んで建っています。 寺の山門の前、石段下モミジの木の蔭に十境詩「南明秋興」の石碑が建っています。

  南明秋興(大内御堀)   南明の秋興
金玉樓臺擁翠微   金玉の楼台翠微を擁し
南山秋色兩交輝   南山の秋色、両(ふた)つながら輝を交じふ
西風落葉雲門静   西風、葉を落として雲門静かなり
暮雨欲來僧未帰   暮雨来たらんと欲して僧未だ帰らず

  *秋興:秋に物思う *南明、南山:乗福寺(南明山乗福寺) *僧:この詩を読んだとき、乗福寺の僧は渡明して不在であった。       

 

  象峰積雪(大内川向)

山口十境詩―象峯積雪(大内川向)

  旧鰐石橋の南詰、鰐石川(椹野川)を挟んで大内側の象頭山麓に山口十境詩の石碑が建っています。この地は旧萩往還道で、嘗て志士たちが熱い思いを胸に往来した道でした。この石碑のすぐ脇には、文久三年六月頃に高杉晋作が鳳翩山と鰐石川に寄せて、新たな人生の出発の決意を詠んだ「鴻城遇成」なる七言絶句の説明板も立っています。

  象峯積雪(大内川向)
夜来積雪象頭峯   夜来の積雪、象頭の峰
老却渓山變玉龍   老却したる渓山、玉龍に變ず
便欲乗龍朝帝闕   便(すなは)ち龍に乗りて帝闕に朝せんと欲す
瑶階夐宇更重重   瑶階夐宇(ようかいけいう)更に重重(ちょうちょう)

  鴻城遇成(高杉晋作)
鳳岳脉遥跨中国   鳳岳(ほうがく)は遥か中国に跨り
鰐川水即至西洋   鰐川(わにかわ)の水は即ち西洋に至る
佳肴肥腹酒洗肺   佳肴は腹を肥やし酒は肺を洗う
万地物天初顕年   万地の物天初めて顕わるるの年
鳳翩山の山並みは、遥か中国にまでつながる
鰐石川の流れは西洋に通ずる
佳い魚は腹を満たし、酒は肺の中まで洗う
この世にあるものすべてが初めて現れるような年である

 

  鰐石生雲(鰐石)

山口十境詩―鰐石生雲(鰐石)―
萩往還を防府(三田尻)に向って、旧市内を抜けようとする鰐石川(椹野川)に架かる旧鰐石橋。ここはかつての萩往還道。橋に向かって石敷きのやや勾配のある道が延び、廃虚と思しき醤油蔵の看板が旧街道の風情を感じさせます。 旧鰐石橋の北詰“重ね岩”の脇に「十境詩」の石碑が建っています。

  鰐石生雲(鰐石)   鰐石に雲を生ず
禹門点額不成龍   禹門の点額、龍と成らず
玉石流渓任激衝   玉石、渓に流れて激衝に任す
自是煙霞釣鰲処   是より煙霞(えんか)釣鰲(ちょうごう)のところ
幾重苔蘚白雲封   幾重の苔蘚、白雲封ぜり
 


 

猿林暁月(古熊)

山口十境詩―猿林暁月(古熊)―

  山口線山口駅と上山口駅の中間あたり、鰐石川(椹野川)に架かる天神橋を渡って東に行くと山の麓に突き当たり、古熊神社に行き着きます。付近には市立大殿中学校があり、神社へと続く参道の両脇は田園風景が家並に馴染んで拡がり、その神社の鳥居の下に十境詩の石碑のひとつが建っています。

  猿林暁月(古熊)
曙色初分天雨霜   曙色初めて分(あきら)かなり 天の霜をして雨(ふ)らしむ
          ると
凄凄残月伴琳琅   凄々たる残月、琳琅(りんろう)を伴ふ
山人一去無消息   山人ひとたび去って消息無し
驚起哀猿空断腸   驚起すれば哀猿(あいえん)空しく腸(はらわた)を断つ
        

 

  清水晩鐘(宮野下恋路)

山口十境詩−清水晩鐘(宮野下恋路)

  国道新262号線を宮野護国神社前から防府市に向かってJR山口線の跨線橋を越え、しばらく行くと国道北側(左手)に「清水寺」の道標が見えます。道標に従って国道を下りると参道に繋がり、その先に古刹「清水寺」があります。 阿・吽の仁王像と古色に枯れた趣の仁王門の先、急坂の石段が続き、息を切らして登り切った所に境内が拓けており、その境内東隅に十境詩「清水晩鐘」の碑が建っています。

  C水晩鐘
暮雲疎雨欲消魂 暮雲疎雨(ぼうんそう)、魂消えんと欲す
獨立西風半掩門 独り西風(せいふう)に立てば、半(なか)ば門を掩(と)ざす
大内峯頭C水寺 大内峰頭(ほうとう)、C水寺(せいすいじ)
鐘聲驚客幾黄昏 鐘声(しょうせい)、客(かく)を驚かすこと幾黄昏(いくこうこ
        ん)
        

 

  泊P晴嵐(宮野江良)

山口十境詩―泊Pリ嵐(はせせいらん-宮野江良)

  県庁前から国道新9号線で七尾山トンネルを超えて宮野方面に行き、護国神社や常栄寺への取り付け道路の手前の路地を、山手に入ってすぐの場所、変形四叉路となった中央部分に山口十境詩「泊Pリ嵐」の碑が建っています。 嘗てこの辺りは“泊瀬”(はせ)と呼ばれ、傍らの小高い丘には「初瀬観音」の祠も建っています。 新9号線の下をくぐり抜け蛇行する路地を下ると自衛隊山口駐屯地の演習場や三宮神社があり旧山陰道に通じています。

  泊Pリ嵐(宮野江良)
非烟非霧翠光迷   烟(もや)に非ず霧に非ず、翠光(すいこう)迷(まど)ふ
谷口雲連日影低   谷口(こくくう)に雲連なりて、日影(にちえい)低し
都道嵯峨山色似   都(す)べて道(い)ふ、嵯峨、山色似たり
依稀疑是洛陽西   依稀(いき)たり、疑ふらくは是、洛陽の西なるか、と
        

 

  紅橋跨水(天花)

山口十境詩―虹橋跨水(天花)

  瑠璃光寺から東に一の坂川まで歩くと木町橋が架かっています。この橋の袂に山口十境詩「虹橋跨水(天花)」の石碑が建っています。東鳳翩山を迂回して、北から天花を下りこの橋を渡る道は旧萩往還道。“竪小路”へと続き“札の辻”で“大市商店街”と交叉します。その途中には大内氏の旧館跡、龍福禅寺や八坂神社など、大内文化を偲ばせる旧跡が点在しています。

  虹橋跨水(天花)   虹橋 水に跨る
盤浸甃玉按東流   盤浸甃玉(ばんしんしゅうぎょく)東流を按(も)む
鞭石尋仙興未休   石を鞭打ち仙を尋ねて興、未だ休(や)まず
借得紫虹飛欲去   紫虹を借り得たり、飛んで去らんと欲す
扶桑何處是三州   扶桑何れの處にか、是れ三州

  *扶桑・・・東海(日本海)中にあり、扶桑(神木)が繁っている神仙の国
*三州・・・渤海中にある蓬莱、方丈、嬴州の三州
      
 

 

  梅峰 飛瀑(法泉寺)

山口十境詩―「梅峰飛瀑」(法泉寺)

  山口大神宮前の道を五十鈴川に沿って山手に向かって登っていくと五十鈴川ダムに行き着きます。小生、この地にダムがあることを十境詩の石碑を訪ねるまでは露ほども知りませんでした。嘗てこの地辺りに「法泉寺」という臨済宗の寺院があり、毛利氏が防長二州に移封された時代に廃寺とされたと伝えられています。五十鈴川ダムの崖の側に十境詩「梅峯飛瀑」の石碑が建っています。

  梅峯飛瀑(ばいほうひばく)(法泉寺)
銀河誰挽玉龍翔   銀河、誰が挽く玉龍の翔
白練懸崖百尺長   白練、崖に懸れり 百尺の長
噴向梅梢雨花落   噴(しぶき)は梅の梢に向かふて雨花落つ
濺人珠玉帯清香   人に濺(そそ)ぐ珠玉は清香を帯びたり

        

 

    温泉春色(湯田)

山口十境詩―温泉春色<湯田>

  温泉春色<湯田>
山川秀孕陰陽炭  山川(さんせん)秀孕(しゅうよう)たり陰陽の炭
天地鋳成造化炉  天地鋳成せり造化の炉>
誰献玉鷗天寶後  誰か献じけむ玉鴎(ぎょくおう)天宝(てんぽう)の後
派分春色至東隅  派分(はぶん)して春色東隅に至る

  この地(湯田)の自然(山川)は姿が優れてふっくらとしている。
これは陰の気と陽の気とが激突して流れ出る溶岩が作り上げた結晶である。
天地万物は天然の溶鉱炉の中で鉱物を溶かし鋳型にはめて作り出された物なのだ。
(それにしても)一体誰が玄宗皇帝の治世の天宝の後までも美しいユリカモメを献上したのだろうか。
それが派かれ分かれてついには東方の国、日本の一隅にまで飛んできて周防の湯田の川面にその可憐な姿を浮かべ春景色を美しく描き出している。

  湯田温泉の温泉街の真っただ中「松政」と「松田家旅館」の境界部分、旧国道の歩道の内側に石碑が建っています。傍には「足湯」があり観光客が寛いでいますが、この十境詩の存在にはあまり興味を示してはいないようでした。

  参考図書  かがやける大内文化の精華−山口十境詩考−       荒巻大拙 著(荒巻氏は小生の高三時の担任でした。)

        

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